モダン枯山水を見て、こんなことを考えていた
重森三玲氏(近代いけばな史のミステリーを解く鍵を持った人の一人)にゆかりの地へ行ってきました。
三玲氏の作った庭を二つ見たので、とりあえず画像を一枚貼っときます。上の画像は、「東福寺 霊雲院 九山八海の庭」です。同じ東福寺の、「八相の庭」の小市松の方が三玲のモダンはよく現れてるんだけど、暗くなりすぎてシャッターが押せなかった……(あれは、フラッシュ焚いて撮るもんじゃない)。
三玲の功績で、最も大きいものは、「勅使河原蒼風を世に出したこと」と、「中川幸夫を見出したこと」だと言う人がいますが、本当にそのとおりだと思います。いけばな家じゃないのに、三玲先生、なんであんなにいけばなに熱くなれたんかな?
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三玲といけばな、と言えば、やはり「新興いけばな宣言」であり、いけばなの革新を後押しする一番大きな力は三玲の存在だったような気がする。
いけばなの師弟というのは、多分、ピアノとか絵とかバレエの世界のそれと比べると、ずいぶん家族的な面を持っていて、先生のことを「親先生」と呼んだりする。これは、良い面を言えば「深い絆」なんだけど、悪い面を言うなら、いつでも「なあなあ」に陥る危険性を持っている関係だったりする。先生の言うことに引きずられて、本当に自分がやりたいことを見失う可能性だって含まれている。
まあ、そういうことを、師弟が互いに賢く見極めて、その人の「真実の光」を求めていくことが重要になる。
いけばなが、「前衛」に向かって進んでいたとき(いけばなの外の世界の前衛も元気だった時代だ)前衛思考を持ったいけばな家たちの弟子たちは、ほとんど躊躇無く前衛に挑んでいったように私には見える。親先生の「子」である弟子たちは、親が「未開のジャングルに入ろう。怖くない!」と態度で示せば、「ジャングル」自体はあんまり怖くなかったようなのである。ジャングルで、自分になにが見出せるのか、何ができるのか、という点では、色々葛藤は大きかったと思うし、ついにジャングルになじめなかった人もいたと思うが、親が本気でジャングルに入ろうとしているのを見て取った人たちには、「そこは魔境かどうか知れたもんじゃないぞ」という恐怖は、そんなに感じられないのである。
いけばなが「前衛」に初めて挑んで行った時代に、いけばなの有力者は各流の家元とか、各流派の大幹部クラスの人だった。その人を「親先生」とする弟子たちで、上位の方にいる人たちは、まあこれは今でもそうなんだが、世間的には「おばあちゃん」みたいな年齢の人だ。
つまり、いけばなの「前衛」(上の文で言うところの「未開のジャングル」)に、一番最初に暴れ込んで行ったのは、世間では「おばあちゃん」と呼ばれていた人たちだったことになる。
このパターンは、ほかの創作のジャンルでは、あまり無かったのではなかろうか?
普通は、若者たちが、古いものに飽き足らなくなり、古い勢力と戦ってでも前衛の扉を開いていったというパターンなのじゃないだろうか。
いけばなの世界では、なぜかおっさんたち(「若者」ではなかった)が「前衛」の扉を開き、そこにおばあちゃんたちが迷わず突っ込んでいくという図式になった。なかなか面白い。
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