無駄な時間

2018年8月24日

※旧ブログの記事です

私は、花をいけることが好きだ。鋏を持って、あーでもないこーでもないと考える喜びは、食う喜びや寝る喜びを優に凌駕する。

いけばなは、やはり鋏を持ってなんぼのものだ、と思う。
いけばな教則本をいくら開いてみても、それだけではいけばなの技術は向上しない。本を見るのは無駄ではないが、それを足がかりにして「実践」しなければ、技術は永遠に向上しないものだ。
だから、私がいけばなの古臭い本を見て、「いけばなの本質はあーでもないこーでもない」と考えているのを、「何を無駄なことを」と思われる方も多分いらっしゃるだろう。
あんた、そんなことしてる間に、一作創りなさい、と言われると言葉もないのであるが、何も私は、江戸時代の池坊の資料をみて「技術向上」しようとしているわけではないので、そこのところはご理解いただきたいものだなあと思う。
私が、花をいけたいと思う欲望と、花の資料をひねくってなにごとか明らかにしようとする欲望は、別々のものだ。(根っこの部分では重なるんだろうけど)

「大体が、なぜ江戸時代の池坊の資料を見る必要があるのか」と言われるかもしれないが、これはこれで、見所があるのである。
例えば、江戸時代の後期に、池坊の役職の種類を記した資料を見ると、あるときから「立花部門」の役職を「生花部門」の役職が数で上回る地点がある。
あ、この頃ついに「生花人口」が「立花人口」を超えたのだな、という推理が成り立つ。大型で堅苦しい立花より、世の中が自由な生花を求めだした。つまり、庶民がいけばなを自分のものにし始めたのだ。
この、世の中の変化により、いけばなの何が動いたのか?いけばなの何が不動だったのか?それは、いけばなの美の本質に関わるレベルなのか?美に関わらぬ枝葉の部分なのか?
……と、まあこんな風な考察につながるのだ。

しかし、いくら考察したって、私が良い作品を創作できる役には、ちっとも立ちはしない。もしも、本が鋏の変わりになれるものなら、私は今頃、大した華道家になっていたろうに!

その他

Posted by sei