あの町のはなし

2015年12月15日

※旧ブログの記事です

私の育った千葉市には、栄町という、日本でも有数の歓楽街がある(最近少々落ち目のようだが)。クラブ、キャバレー、ちょっと怪しいお風呂屋さんなどのネオンが、夜毎またたく街であって、「そのスジの方」が多く出没する地域でもあり、私の子供の頃には「おー、また銃撃戦やってるやってる」みたいな街であった。

しかし、この街にもフツーな商店はあるわけで、私の友人のご両親が、一軒の化粧品屋さんを構えておられた。
最近、この友人にあって話したところ、ご両親はもう仕事をやめ、悠々自適の生活に入っておられるとのことであった。そして、
「だから、お店の跡地が遊んじゃってる」と言うのだ。

私は、お店はてっきり借りているものと思っていた(住まいは別の場所だったのである)ので、少しばかり驚いた。栄町、地価が高いからね。
「へー、建物、どうなってるの?」
「建物はもう壊したの。とりあえず空き地にして、花とか植えてるよ」
こりゃまた、贅沢なガーデニングもあったものである。
バブル時代なら、9桁は下らない値段の土地だったはずなのに(今だって9桁いけるかもしれない)、使い道がなくてお花を植えてるとは! 都会の花屋は、店員どうしがすれ違えないほど、土地に困ってるのに!

んで、現在は、あまりにももったいないので、駐車場にでもしようと検討されているとのことだ。
しかしなあ、あのお店、無くなっちゃったのか。私には思い出のあるお店だったのにな。

だって、私が生まれて初めて、自分で営業して花のディスプレイをさせてもらった店舗だったのだ。そうそう、もっとカッコイイ言葉があった。
「花の装飾家として、初めての商業空間進出を果たした」(←笑)場所だったのである。
店内2箇所に、ガラス花器、アクリル花器を置き、カラー、デンファレ、トルコキキョウ、藤蔓を飾らせてもらったのだ。

当時、私はいけばなの展覧会にすらデビューしていなかった頃で、人様の前に己の作品をさらすことが、まったくもって初めてであった。
「日本橋の草月いけばな展が初めての作品出品です」とか、「県展が初です」とかいう先生はたくさんいるが、栄町デビューのいけばな家は、もしかしたら私くらいかもしれない。
その後、歌舞伎町でホストクラブやら、カジノやら、しまいにはストリップショーの花まで生けたが、そもそも私は歓楽街生まれの花職人であったのだ。

友人のご両親には今も感謝している。娘の友人というだけで、きれいな花をいけられるのかどうか、全く不明な私に、よくも大事なお店の装飾をさせてくれたものである。
当時の写真は、今でも私の「営業ファイル」におさまっていて、宣材として現役である。

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Posted by sei