自分、不器用なもんで

2015年12月1日

ここ数日、わけあって、ワイヤーかけたり、テグスを結んだりと、工作的な作業ばかり行っている。

作業をしながら、自分は本当に不器用なのだなあと、つくづく思う。

不器用な人間は、器用な人に、大きな憧れを抱くものである。
器用な人と、不器用者が、隣り合って同じものを作れば、明らかに器用な人の作ったものの方が整っているのだから、当然のことだ。

器用な人は、何か新しいことを始めるときに、スタートダッシュがすごい。飲み込みが早く、うまくまとめて整えることができるから、「初心者とはおもえませんね~」なんていう、不器用者は一生聞けないような賛辞ももらえる。
まあ、あくまでもスタートダッシュの問題であるから、器用な人がいいかげんな気持ちでおれば、こつこつ経験を積んだ不器用者に、いつか追い抜かれることは、無論ありうる。
しかし、スタートダッシュでいい気持ちになることは、ものを始める上では、なかなかに大切なことなのだ。
初めて作ったものを誉められ、夢中になり、いつかその道を極めるというのは、とてもよくある話だ。

不器用者は、大抵自分の不器用さを悲しいことだと思っている。
人生の、比較的早いうちから「自分のつくったものだけみっともない」という、うすらさびしい現実にさらされていることが多いからである。(幼稚園でさせられることは、不器用ものには拷問であることが多い!)
だから、こつこつやれば器用な人と並べるかもしれないことを知っていても、スタート時のおのれのみっともなさに耐えられず、その門をくぐることを放棄してしまうことがある。
これは、非常に悲しいし、残念なことなのだ。
しかし、自分のみっともなさに耐えるには、相当強い人間性を持っていないと難しい。趣味のように、避けて通っても困らないような事柄なら、特に耐える必要も無いわけだし。

よく、「seiさん、不器用なんて謙遜でしょう」と言われることがあるが、上の文を読めば、そんなはずは無いことがわかっていただけるだろう。
謙遜している「実は器用」な人に、こんな生々しい羞恥の告白ができるかっ。
手で何か作ることにおいて、私はほとんどこの羞恥を超えられなかった。
いけばなは、例外なのである。私にしたら、ほとんど奇跡みたいなものだ。

ところが、いけばな界には、私のように、奇跡の光に連れてこられた人などいやしない。
みなさん、器用なのである。私の見たところでは、先天的に器用な人たちみたいなのである。小学校の工作の時間に、一人だけ誉められるような子供だったに違いない。

一人だけ不器用な私は、悔しいことこの上ない。
しかし、不器用者は、器用な方には見えないものが見えることもある。

草月流に入門すると、一番初めに勉強するスタイルを「基本立真型」という。
この型は、なぜ入門の型なのか? なぜ、すぐれた型だと言われるのか?
器用な方は誰も指摘しないが、私に言わせれば、基本立真型は、究極の「不器用者対策型」なのである。不器用者を、見捨てずに救済する型なのである。
まず、最初の一本が立てられないやつが、恥ずかしがって帰ってしまわないように、たった3本の枝の長さと角度だけを決めてある。角度はくっきりして、空間把握の訓練をしていないやつにも分かりやすい。
そして、決め事は3本の枝だけで、あとは自由に入れていいのだ。
要は、ぎりぎりのレイアウトだけ決めてあるから、あんた好みにアレンジしていいよってことだ。
ブログのテンプレートみたいなものですわな。
私は、いけばな家として、大して洞察力は無いが、不器用者だから、こういうことだけは型を見て読解できる。

その他

Posted by sei