人の批評

2016年2月1日

※旧ブログの記事です

展覧会に人を呼ぶと、来てくださった方は、私の作品を見て何かしら述べる。
まあ、当たり前ですわな。私だって、人の展覧会に行ったらそうするだろう。

述べられる内容が、「大変だったでしょう」的な話しであるときは、「低評価」である。だって、「良い!」と思ったときに、人は「大変だったね!」とは言わないもんね。
「私はわかんないけど、すごいんでしょうね」という方もいる。これも、明らかに「低評価」である。「私には、どこが良いのか分からないよ、ごめんね」と言われているのと一緒である。評者にいけばな的スキルがあろうがあるまいが、「低評価」であることは疑いない。

私にイマイチ分からないのは、大人数で合作したときに、「あんたはどの辺を作ったの?」という人である。
聞かれた以上は「あの塊りのところだよ」とか偽らずに言うと、その辺だけ重点的に見るのである。
それは、違わないか?と私は思うが、わざわざ来てくれた人にそうとも言えぬ。私だって、誰にでも言いたいことを言うわけじゃないのさ。

草月展に出品すると、基本的にうちの両親は見に来てくれるのだが、面白いのは、父と母の視点や反応が全然違うことだ。
父は、私が本気で作ったものは、何でも「高評価」である。実物の作品を目の当たりにしているというのに、彼の基準は「seiが一生懸命やったかどうか」なのだ。私に言わせれば「実物は見ていない」のと一緒である。
娘が頑張ったかどうかが唯一の基準であることは、私が幼児の頃から、彼が一貫して変えることのない姿勢である。私は、娘として感謝はするが、彼の感想を「評価」の一つと考えることは到底できない。こんなことを知ったら、父は悲しむのだろうか。

一方、母は、「自分が好きかどうか」を唯一の基準として見る。
気に入ったかどうかは、彼女の鑑賞時間を見れば明らかだ。「好きじゃない」と思った作品の前を、彼女は素通りするのだから。(あまりに明らかな鑑賞態度の違いを、本人は自覚していないようだ。恐ろしい)
母は、いけばなについては素人である。本人はそれを知っているから、「娘の今回の作品は嫌いだ」と思ったとしても、私に批評めいたことは言わない。そういうところは公平であって、実に天晴れである。しかし、娘が懸命に作った作品の前を、彼女は素通りできるのである。
もっとも、クレーやピカソや、ゴッホやカンディンスキーの前を素通りしている母を、私は子供の頃から見ているから、私にとって「母の素通り」は、「ゴッホでも受けている仕打ち」なので、そんなにショックな出来事ではない。ただ、お客さんの反応データの一つとするのみである。

父と母と、どっちが良い批評かと言えば、当然母の方である。申し訳ないが、父の評価は何の参考にもならない。本気で製作に挑むためのお守り程度、と言ったらしかられるだろうか。

その他

Posted by sei