再録:「近代いけばなと現代作家について」
自分が以前に書いた文章を再録しておきます。文を書いたのは、10年も前ですので、相当若書きです。が、考え方は、基本的に現在も同じです。
この文は、2006年に、某ギャラリーでいけばなのレクチャーを行うにあたり、キュレーターさんに提出した「レクチャーコンセプト」です。なので、ノーギャラ原稿です。私が書いたノーギャラ原稿としては、史上最高にマジメです。てゆーか、あれ以来、いけばなの畑で私はマジメな文を書いていません。多分、これから先に書く機会も無いんじゃないでしょうか。
では、斉藤静草が最後にマジメだった瞬間を、共有してもよいとお思いの方だけお読みください。
【タイトル】:「近代いけばなと現代作家について」
古くから、いけばなは、時代によって姿を変える歴史を重ねてきました。
どのような世相で、誰に愛好されるかによって、いけばなは形態も、製作の目的も変転させてきたのです。貴族に愛されれば貴族に、武士に愛されれば武士に、町人に愛されれば町人に、それぞれにふさわしいいけばなが生み出されました。
明治以降の近代に入り、人々の生活様式や意識に、かつて無い大きな変化が起こったとき、同時にいけばなも、近代にふさわしい姿へと変化を始めたのです。
洋風な習慣が生活に入り込み、庶民の中に自由と解放の気運が高まった大正時代の終わり頃、いけばなの近代化は、目に見える運動となって現れました。型に縛られない自由な形態と、個性ある表現を求める声が、いけばなの高い技術を手に入れ、弟子もかかえる教授者たちの中から起こったのです。
自由花を提唱して、真生派を起こした山根翠堂や、「いけばなに個性はいらぬ」とする華道家の父と訣別し、草月流を起こした勅使河原蒼風や、いけばなに積極的に「前衛」という言葉を使い、照明演出など、斬新な花の展示を試みた中山文甫らが先頭に立ってその運動を押し進めました。この運動は、やがてひとつの宣言文を生み出す力となりました。
昭和3~8年頃に草稿が成立したと言われる、「新興いけばな宣言」がそれです。「新興いけばな宣言」は、過激な表現を用いて従来のいけばなを否定し、新しいいけばなの理想を掲げたもので、進歩的な考えを持った華道家と評論家の計6名が署名しました。
この宣言は、文中で何度もいけばなを「芸術である」と繰り返しています。いけばなは、室町から始まる歴史の中で、この時代になって初めて「芸術である」との明らかな見解を、自ら世に表そうとしたのです。
自分たちの行為が芸術であるとの、新たな自負を持った華道家たちは、いけばなの多様な表現を追求するうえで、現代美術からの大きな影響を受けました。その結果、勅使河原蒼風のオブジェいけばな、小原豊雲のシュルレアリズム的作品、中山文甫の前衛挿花など、美術用語で説明されるほうが分かりやすいいけばなが誕生しました。
その時代に、たまたま目新しい芸術運動としての現代美術が、意欲的な華道家たちの心を引きつけただけだったとすれば、いけばなから現代美術に向かって、ここまでの親和性が生まれ得るとは思えません。数ある表現美術の中でも、いけばなは特に現代美術から多くの方法を吸収したのです。
なぜ、他のジャンルでなく、現代美術だったのかを考えると、その理由は複数存在すると思われます。主なものを挙げると、近代いけばなと現代美術の双方に、従来の固定されたものを否定する精神があること、素材・方法が自由な表現であること、具象を持ち込んで来ることが可能な抽象芸術であること。このような要因が重なったものであり、単一の原因ではありません。
近代いけばなの道を開いた華道家たちは、現代美術から得た知識や手法を、自分たちのフィールドでいけばな的に、きわめて感覚的に消化しました。現代美術の理論や、創造行為の理由付けを明確にする姿勢は、いけばな界にはほぼ根付かなかったのです。
このことから、いけばな界の現代美術に対する理解を、浅薄なものと見ることも可能です。しかし、感覚的であったがために、現代美術的ないけばなの創作は、一部の進歩的華道家にとどまらず、末端の門下生にまで浸透しました。現在、創作活動を行っている華道家たちの作品には、現代美術の要素が、ごく当たり前のように見て取れます。
このレクチャーを行うにあたり、現在創作のために葛藤している実作家たちに、作品画像の提供を募りました。近代いけばなが獲得した「自由」と「個性ある表現」が、立ち止まらず発展を続けている姿を見ていただきたいためです。また、現代美術の要素がいかに現れているかを読み取ることで、他ジャンルの視点からは、現代美術に何が見えるのかを知る手段の一つを作りたいと思います。
2006.1.27 斉藤 静草
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