知識は「邪魔」になるのか

※旧ブログの記事です

今日は、うちのお稽古日だった。

私が、いらなくなった色彩学の本を捨てると言ったら、お弟子さんの一人が「それなら貰う」と持って帰った。できれば、役に立ってくれると嬉しいと思う。

創作の世界では、教科書的なものを使った勉強をする人を「頭でっかちになりやがって」という視線で見る風潮がある。
確かに、教科書の勉強だけ熱心に行い、実践を鍛えない人は、そう言われてもしかたないと思う。また、教科書の勉強が、絶対的な技術向上に直結すると思っている人も、そう言われても仕方ないだろう。
しかし、実製作も、教科書的知識の吸収も、共に熱心に行っている人を指差し、「机上の勉強は、所詮机上を出ない」みたいなことを言う奴は、私はちょっと違うんではないかと思う。
自身の向上のために、書を開くことは、立派なことではないのか?

また、「教科書的勉強もいいが、それにとらわれて創作が自由を失うくらいならやめた方がいい」という人もいる。
私は、この台詞の言わんとするところは分かるように思う。
しかし、それは、余計なおせっかいの範疇ではないかと思うのだ。
だって、なんのために表現者が知識を得ようとするのかと言えば、それを使いこなし、自分の厚みとし、それを足がかりにして、さらに表現を飛翔させることが目的なのである。
「それにとらわれて自由を無くすなら、やめたほうが……」
と言うのは、
「指を切るかもしれないので、鋏を使うのはやめた方がいい」
と言ってるみたいな話ではないか。

私が思うに、知識が増えるほどに、それにとらわれたり、本来の自分の表現を忘れるような奴がいるとすれば、そいつは少々バカである。
知識の消化に迷い、一時的にそういうちょいバカの領域をうろつく時期がある程度はまあいいが、それっきり戻ってきませんでした、というのであれば、そいつは本気でおばかちゃんである。

だから、「自由を無くすなら、やめたほうがいい」と言うのは、
「あんたはおばかちゃんかもしれないから、無駄な知恵をつけないほうがいいよ」と言っているのと、同じではないかと思う。
そんなん、人に向かって言ったらいかんことだ。言いたくば、自分に言ったらよろしい。

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コメント

  1. かおり より:

    そうです、そのとおりです。うんうん。

  2. sei より:

    かおりさん
    ご賛同ありがとです。
    しかし、こういう文を書くやつが一番バカだったら、洒落になりませんよね。

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