いけばな屋として言うことは無いのか。

※旧ブログの締めに書いた文です

当ブログ、あと三日で中締めとなりますゆえ、このところ頻繁に更新しております。
しかし、考えたら、このブログのこと、本サイトのこと、他ブログのことは、「まとめ」めいたものを書いたというのに、「いけばな屋として」は、一文も書いておりません。
これは、変な怪談を前後編に渡って書いている場合ではないぞよ、と思い、今日はいけばな屋として思うところを書きます。

私、チンピラいけばな屋のおseiさんは、チンピラではありますが、チンピラなりに昔からある問いかけを持っておりました。
それは、
美は人生を救済し得るのか
という、全くもって恥ずかしいような問いかけでありました。
私は、長いこと、この問いかけに対して懐疑的でありました。しかし、今は
それは、人生を救済し得る
と考えています。
何か、きっかけがあってそう思い至ったのではありません。いつからか、そうなったのです。それは、当たり前のように、そうなりました。

美は、人生を救済し得る。
だとすれば、いけばなもまた、人生を救済し得るはずです。
音楽の美や、絵画彫刻の美や、自然の美は救済となるが、いけばなだけは救済とならないなんて、そんなはずはない。
私は、子供の頃から自分がとらわれたいけばなの魅力が、「自己満足以上のものなど、一つももたらさないお遊び」ではないのかと、かなりいい年になるまで、ずっと疑ってきました。
しかし、いけばなは、人間の心に、確かに何かをもたらすことができる。むなしいお遊びに今日まで時間を費やしてきたわけじゃないと、今は思います。

実際には、いけばなよりも飾り花で稼いだお金の方が断然多い私が言っても、説得力があるかどうか分かりませんが、いけばなの美は、価値あるものです。

この場所で、こんなことを書くのは最後だと思うので、大変に恥ずかしい言い様をしてしまいましょう。
今、チンピラいけばな屋のseiさんは、このように思っております。

「いけばなは、価値あるものである。私達は、無力ではない」

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