それは、飯城勇三氏が言うところの……

2016年1月4日

昨日、いけばなの稽古場で、
「素人のお客さんほど、『作品に言葉を付けること』が好きなのはなぜなのか」
という話しをしていました。

話しの発端としては、草月展の新宿展が、今年も作品背景に言葉を付けることになった、というところから始まったんですが、長年いけばな展にかかずらわっている私みたいな人の中には、
「素人さんの方が、私らまっ黒のクロウトよりも、難しい理屈をつけて作品を見たがるのはなぜなのか」
と思っている人が数多くいます。
私たち実作者は、大概は「この線が何を表している」「この色は、アレを暗示している」などとは思わずに作品を創っています。(たまに、そういう方向からでないと創作を始められないタイプの人がいることはいます)
なので、作り終わったときに、「作品コンセプトを言え」とか言われると、言葉にするのにえらい苦労することがあります。これは、考えたら当たり前のことで、言語に乗せずにいけばなで作りたいからそうしたものを、「よりふさわしくない方法で表現しなおせ」と言われたって困るのです。
作品コンセプトは、「無かった」のではありません。有るけど、言語にするのは「最適」じゃないのです。
その、「最適じゃないに決まってるもの」を、なぜか素人さんは聞きたがります。
私は最初、向こうも義理で聞いてくるのかと思っていました(なんか聞かなきゃ、と気を使ったのかと……)。しかし、もう10年以上も前から、私は「そんなに義理でもない」ことに気が付き始めました。(まったくもって義理です、という人も大勢いると思います)

実際に、あるんです。こういうことが。
たとえば、葉っぱが数枚ペラペラ並んでいるだけの作品があったとして(実在する作品ではなく、今適当に例として考えた作品です)、それを
「これだけ? これがいけばな? 何が良いやら悪いやら」
と首をひねっているお客さんがいたとします。その人に近づいて、
「これはですね、長野のナントカ山にしかないカエデの葉っぱなんです」
とかなんとか、重々しく言います。
すると、かなりの高確率で、
「ほう! 長野ですか!」
と食いついてくる人がいるんです。首ひねってたのはどこへやら、期待してこっちの言葉を待っています。
「この季節しか、この色にはならないんですよ。今年は気温の上がりが早いので、いつもより高山まで行って取ってきました……」
「ほう! 取って来たんですか、自分で! ……この作品は、何を表しているんです?」
「現代人の孤独を、数枚の葉に託してみました」
「おお、いけばなって……奥が深いですねえ!」

………とんだ茶番じゃねえかよ!
と思ったあなたは多分正しいですよ。私だってそう思うのさ。
しかし、こういうやり取りで興味を持ち、次の展覧会にも来てくれる人って、いるんですよ。何なら、友達も連れてきてくれます。そして、こっちが忘れてしまっても、意外に「長野のナントカいうカエデの『孤独』」を、長く記憶していてくれて、人に喋ったりしてくれます。
頭の良い表現者は、こういう素人さんの心理・行動を味方に付けるために、ものすごく饒舌に、魅力的に作品背景を演出します。
私のように、
「コンセプトは、何でしょうかなあ。ああ、そのユリはね、安いんです。安いやつって頼んだらこれが来たの。わはははははは」
とか言ったりはしません。

しかし、上の「茶番」を良く見ると、
「結局、その作品自体はどうだったのか。作品の美は何ものかを語ったのか」
という疑問が生まれます。
実際のところ、作品を見てなくても、「作者の語り」に感心するお客さんは、それだけで満足して帰ることもあると思います。長野の高山に、ほんの数枚の葉っぱを求めて登った作者の物語に、感動や共感を覚えて「大いなる創作へのロマン」を楽しむって、有りなんだと思います。
そこから、「いけばなって、意外に面白いかもしれない」という人が現れるなら、それでもいいやと思わぬでもないです。

人が、「何を思ってその行動を起こしたのか」って、興味ありますよね。
「え、彼氏を振っちゃったの? どうして?」
「引っ越すの? どうして? 一年も住んでないのに」
「なんでいきなりトライアスロンなんて始めたのよ?」
とかね、女性の雑談なんて、そういう「どうして話題」の宝庫です。

私は昨日、こういった話しをしていて、
「ああ、これは飯城勇三氏が言うところの『犯人の物語』だ」
と思ったんですね。
飯城氏は、「ミステリというのは、名探偵の物語というよりも、そのほとんどは、実質的には犯人の物語だ」と、著書エラリー・クイーン論で書いておられます。探偵がどうやって謎を解いたかよりも、探偵が解いた謎がどんなものだったかを描く方が、ミステリの世界では主流なんです。
犯人は誰なのか。
そのとき、犯人は、どうしたのか。
犯人は何を思ったのか。
つまりは、行為者がどう思ってどうしたのかということです。
そういうドラマを描くことは、読者の受けも良いですし、作者自身も描き甲斐があり(作家が惹きつけられるテーマなんでしょう)、強烈な魅力がある物語の作り方だと氏は書いています。
「クイーン論」は、「でもクイーンは、主流である『犯人の物語』よりも、『探偵の物語』を熱心に描いた作家なんだよ」という論になっているのですが、そこはまあ興味がある人はお読みになってください。(私はエラリー・クイーン論 を、なぜか「執筆にはキミの考察が役立ちました」と言われて寄贈を受けています。どうやら、P202~205あたりにワタシが役立っているっぽい)

作者の物語(何を表そうとして、何に苦労したのか)、つまり行為者がどう思ってどうしたのかの物語は、行為の結果よりも、いっそ人をひきつけ得ることがあるほどに魅力的なんでしょう。言語への変換が特に難しい抽象作品であれば、なおさらそうなんでしょう。
私たちは、「犯人の物語」を超える魅力を作品の上に現さないと、お客さんは永遠に「作品のみ」を求めてなんかくれないんだ……と、思うとちょっと呆然とします。
「犯人の物語」の魅力は、そりゃあ強力なんですよ。クイーン以外のミステリ作家が、全員そっちに行くほどなんですからね。

その他

Posted by sei